津波被災地現地報告(その1)

大石雅之(岩手県立博物館)

 

 岩手県沿岸の津波被災地を訪れ、予備的調査を行ったので、速報として報告します。

 このたびの「2011年3月11日東北地方太平洋沖地震」による震災・津波災害で犠牲になられた多くの方々に哀悼の意を表し、被災されたさらに多くの方々にお見舞い申し上げます。また、捜索、救命、救援、復興にあたる人々に心からねぎらいの言葉を贈りたいと思います。当方にも、多くの方々からお見舞いのメールや電話をいただきました。それらの方々は異口同音に自分に何かできることはないか、といっていただきました。心より感謝いたします。

 岩手県立博物館は、特別展示室のガラスにひびが入りましたが、被害は概して軽少で、3月22日から展示室の公開を再開しています。しかし、平成23年度の特別展示はすべて中止となることが決まり、その予算は岩手県の災害復興にまわされることになっています。

 地質学会会員の中でも被災地に近い場所に居住する者として、いちはやく現場に向かいたかったのですが、地震当初のライフライン寸断とガソリン不足のために、初動が遅れてしまいました。そしてやっと、3月25日と29日に当館同僚の吉田充とともに岩手県沿岸の一部の地域に行くことができました。ここではその報告を行います。結果的には、災害発生直後では道路事情が悪く、通行規制もあったので、2週間後の行動で妥当だったように思われます。以下に当初関係者に電子メールで報告したものをベースに時系列で記述します。

 

3月25日 陸前高田市〜大船渡市方面

 事前に、1)高台から写真を撮影する、2)最大遡上高や浸水深などを読み取る、3)津波堆積物を採取する、4)被災遺構候補を探す、の4つを目標にし、自然の営力の結果を見ることを主眼に置いた。1)は記録として当然で、2)は測量器材を使わないが、1/25000地形図でおおよその標高を読み取って指標になるものを撮影して後日の測量に使えるようにした。3)については、当初平成23年度テーマ展「砂−砂粒から大地をさぐる」を準備していたことと関連するが、前記のようにこの特別展示は中止になった。しかし、資料収集は継続することとし、とくに既に砂を採取した地点での最新の津波堆積物の採取に努めた。4)は宇井忠英北海道大学名誉教授、岩松暉鹿児島大学名誉教授ほかの方々から強く勧められ、また非常に重要なことだと考えて被災遺構保存を実現すべく行動を始めていることの一環である。

第1図.陸前高田市内に向かう。津波で被災した市街地と無傷の民家の違いが歴然としている。

 住田町世田米から気仙川に沿って国道340号線を陸前高田市に向かう。同市横田町三日市(河口から約8km)で車窓から気仙川に材木や瓦礫の集積が見えるようになる。市内に近づき、いよいよ緊張する。国道45号線の迂回路となっている廻館橋の渋滞を右に見て左へカーブすると、突然道路の両側が材木や瓦礫の山となった。竹駒町の氷上山登り口の目印となる大きな水晶のような形の塔の下部も壊れている。しばらく行くと市内方面は通行止めで、氷上山の麓を大船渡へぬける道路へと曲がる。高台から荒涼とした陸前高田の市街地が見える。市街地方面に向かう道路へ右折すると、路上に壊れかけた民家があり、もどって別の道の坂をさがる。そこでは、海辺の野球場までほとんど遮るものがないくらいに視界が広がっていた(第1図)。

 陸前高田の市内の様子は、メディアが映像で伝えるとおりの荒涼とした風景になっている。新たに言葉で表現するすべを知らない。メディアの映像で伝わらないのは、そういった風景が自分のまわりに360度展開していることと被災地をそよぐ海風の匂いだ。津波の先端が到達して破壊された家屋とこれより高い位置で津波を免れて何事もなかったかのような家屋との違いが、あまりにも歴然としている。

 体育文化センターは、陸前高田市立博物館、市立図書館、市中央公民館、市民体育館がならび、芝生が広がるこのエリアは市民の憩いの場だった。しかし、建物は残っているものの、瓦礫の廃墟と化していた。接近してみると開口部は材木や瓦礫、そして自動車の残骸で塞がれ、まったく無残な姿になっていた。市立博物館は2階の天井まで破損し、入口は瓦礫と自動車の残骸がつまっていた。屋根のアンテナは健在だったので、博物館の最上部は水没を免れたと思われる。2006年8月19日に岩手県立博物館が陸前高田市立博物館と共催で実施した地質観察会「玉山金山の水晶と氷上花こう岩」で参加者受付をしたこの博物館の玄関の写真と比べると、言葉もない。公民館の前に花崗岩巨石が転がっていたが、名板の文字が上下逆になっていた。地質観察会受付写真の遠方にこの巨石が写っていたが、その上にあったブロンズ像がどうなったのかはわからない。博物館職員4名のうち、3名が亡くなられたことが確認されたようだ。教育委員会生涯学習課課長補佐のS氏は今の博物館を築き上げた中心人物であり、考古学や民俗学が専門だが、自然史にも大きな貢献をした人だ。2月2日に宮古市の浄土ヶ浜パークホテルで開催された「いわて三陸ジオパーク」推進協議会設立総会の際に会って話をしたばかりだったが、残念ながら亡くなられた。亡くなられた方々に慎んでご冥福を祈りたい。

 次に、大船渡市の碁石海岸付近にある大船渡市立博物館へ行った。高台にある大船渡市立博物館は健在だったが、閉館中で無人だった。碁石海岸付近も、宿泊したことのある「ごいし荘」をはじめ、無残な姿になっていた。その後、三陸自動車道で大船渡湾をまわった。東岸の太平洋セメント工場の付近では、重油がもれたらしく、最高水位の痕が建物に黒くくっきりと残っていた。出火しなかったのが不幸中の幸いだ。三陸鉄道「りくぜんあかさき」駅から望む赤崎町は、膨大な量の瓦礫と材木とゴミと家の屋根、そして不自然に散在する船からなる景観だった。もうこれ以上雑然とした状態にならないというほどで、茫然とする以外ない。

第2図.大船渡市合足で最大遡上高を示す「引波痕」。

 蛸の浦から綾里方面に抜け、「合足(あったり)の津波石」に行ってみた。これは、明治三陸大津波で運ばれてきたといわれる巨石で、岩手県教育委員会による『岩手県天然記念物(地質・鉱物)緊急調査報告書』の八木下晃司岩手大学助教授(当時)の記載によれば、1.1×2.5×1.3mの粘板岩である。杉林のある海岸でもともと人家はなく、巨石がひとつだけあって、周囲に他の巨石はない。内心、津波石が増えていることを期待したが、津波石はまったくもとのままであった。しかし、ここでは、枯れ葉で覆われる谷の斜面が津波で洗われて明瞭に枯れ葉が除去され、黒色の土の色が見えている。これにより、津波石付近で約10mの最高水位であったことがわかり、また津波で表皮が剥がされた杉の木でも水位が明瞭にわかった。さらに地形図で読み取る標高で16-17mほどの谷の分岐付近で、引波によって海側になびいて倒れた草とそうでない草との境界が最大遡上高を示していた(第2図)。ここではこれを仮に、枯れ枝や草の「引波痕」とよぶ。最大遡上高を知る有効な手がかりになる。等高線の読み取りと写真さえあれば、後日正確な測量が可能であるので、今後の大雨以前にできるだけ多くの地点での確認が望まれる。

 綾里の港では防潮堤の内側に何艘も船があり、街中瓦礫と残骸ばかりである。綾里の港側では等高線の読みで6〜7mが最大遡上高であり、峠には、明治三陸大津波で知られる最高の最大遡上高38.2mの「明治三陸大津波水位表」が東北電力の電柱に設置されているが、今回はここまで津波は遡上していない。白浜側では、等高線が読みづらいが、32mの標高点と県道に対する津波にゴミの位置から24mほどの最大遡上高が読み取れる。この地点は、3月26日付の朝日新聞にある港湾航空技術研究所の「綾里地区で23.6m」とある場所と思われる。ここでは、明治三陸大津波の最大遡上高をかなり下回っている。破壊はされたが、防潮堤の効果があったと思われる。また、港側と白浜側で最大遡上高が大きく異なる。峠にある「明治三陸大津波伝承碑」には、「野を越え山を走りて道合に至り両湾の海水連絡せるに至る」とあるが、今回の状況から推測して白浜側から港側に注いだ可能性も考えられる。

 白浜海岸の防潮堤の大部分は破壊され、本来の位置から移動して陸側に散在していた。防潮堤の底面の幅が狭く、鉄骨との接続が脆弱に思えた。海岸の崖は約15m(=目測で不正確)ほどが津波で洗われて露頭になっている。白浜の集落は高台にあり、今回は無事であった。

 泊で宿泊したことのある民宿「嘉宝荘」がなくなっていて愕然とし、越喜来の惨状を見るころには暗くなり始めた。吉浜は、首藤伸夫東北大学名誉教授に教わったところによると、かつて新沼武左衛門という名主が主唱した高地移転がよく守られ、今回も人的被害がなかったようである。この日は時間切れで行くことができなかった。

(2011/4/5)