宮古市重茂半島川代の津波コマ撮り写真と姉吉の最大遡上高

大石雅之(岩手県立博物館)

 

 「2011年3月11日東北地方太平洋沖地震」による津波の記録写真を紹介する。これは筆者が3月31日に岩手県立博物館藤井忠志氏から受け取ったCDに保存されている。撮影者は宮古市田老町の大上幹彦(おおうえみきひこ)氏で、撮影場所は重茂半島の太平洋側の宮古市と山田町の境界付近で、撮影ポイントは山田町側であり、宮古市川代の海岸の景観が撮影されている。大上氏はブナ林の調査をしていたが、地震の後、海岸の撮影を開始している。

第1図.宮古市姉吉の海岸。海側から西方を望む。津波は右側の鞍部を乗り越えたとみられる。地形図では30mほどの標高が読み取れる。

 現地の写真と地形図との対応が不明確であったので、4月2日に現地に行った。川代に行く途中で、3月29日に行くことができなかった姉吉に寄った。姉吉の集落は海岸より700mほど内陸にあり、海よりの道路脇に「此処より下に家を建てるな」と書かれた「津浪記念碑」がある。その50mほど下流まで津波の痕跡があった。ここまでガードレールの破損や木材や木屑の散乱があった。また、青テープ付き木杭が立てられていた。等高線の読みで最大遡上高は約40mであった。明治三陸大津波の綾里白浜の38.2mを越える可能性があり、後日正確な測量が必要である。姉吉の海岸は荒涼たる景観で、津波に洗われて全面露頭になっていた(第1図)。

 千鶏、石浜の集落の惨状を見てから、川代に到着した。撮影ポイントは集落の南側の道路脇の標高20mほどの空き地の高台であった。

  CDには266点の写真が記録されており、1〜20が植物調査、21〜88が津波、89〜266は後日の津波被害の写真である。

第2図.宮古市川代の景観 (1, 2011年3月11日15:02)
第3図.宮古市川代の景観 (2, 15:18)
第4図.宮古市川代の景観 (3, 15:18)
第5図.宮古市川代の景観 (4, 15:18)
第6図.宮古市川代の景観 (5, 15:48)
撮影: 大上幹彦氏(第2〜6図)

 写真は15時2分から始まっている(第2図; デジタルカメラの記録は「14時43分」となっているが、19分遅れと藤井氏から伝言されている)。中央に民家、右手に杉の木が立ち、左遠方約800m先に館ヶ崎と岩礁や小島が見える。その後15時9分には岩礁付近の水位が上がって15時10分に岩礁は水没し、15時12分には右手の防波堤も水没するが、15時16分にはふたたび現れ、山田町側の小根ヶ崎に白波が現れる。15時18分18秒には館ヶ崎に白波が現れ(第3図)、防波堤に滝のように海水が落ちるようになってさらに水位が上がり、18分43秒には白波が岸に到達して軽トラックを飲み込み、ボートを起こして杉の木に到達する(第4図)。18分54秒には波が家を襲い、杉の木を白波が激しく包む(第5図)。館ヶ崎に現れた白波は25秒で杉の木に到達したことになり、115km/hほどの速度で迫ったことになる。その後2コマほどピントが合わない草地が映し出されているので、恐怖を感じた撮影者がこの間逃げ惑ってシャッターを押したと思われる。15時20分には水位の上がった水面に瓦礫と民家の屋根が浮かぶ映像が映し出され、館ヶ崎に白波が現れ、15時21分には岩礁が大きく現れ、水が引いている。その後は道路を山田町方面に150mほど歩き、やや高い位置の木立越しに撮影した映像となり、水位の上下が読み取れる。15時47分には、民家がなくなって下半分の枝が失われた杉の木の映像が映し出されている(第6図)。

 これらの写真は、津波が岸に到達する以前の状況が映し出されている点で貴重であると考えられる。上記の記述からもわかるように、最初はゆっくりと水位が上昇し、その後水位が下がり、直後に高速の大きな波が到達したことがわかる。さまざまな証言で、一度水が引いたときに家に貴重品を取りに行った人や、漁港の船のロープを直しに行った人たちが犠牲になったことが知られているが、この映像はそのことを裏付けている。この日に鵜磯小学校で会った、この小学校の卒業生で宮古市千徳在住の男性は、「ここ数年の津波は規模が小さいので、ああまたかと油断した人が多かったのでは」と話をしていた。ここで紹介したコマ撮り写真は、さらに詳細に解析することで、重要な情報が得られると思われる。

 川代から山田町に出てその惨状を見る。鯨と海の科学館は、外見は一見無傷に見えたが、ガラスは割れ、中で天井から吊るされているマッコウクジラ骨格はゴミを噛み、クロミンククジラの頭骨にゴミがのっていた。床は展示物やゴミが散乱していた。この付近の「老人保健施設霞露」には多数の車が天井や2階にのっていた。山田町中心地の郵便局の屋上には船がのっていた。

 貴重な資料を使わせていただいた大上幹彦氏と藤井忠志氏に深く感謝申し上げる。

(2011/4/5)