〜2018年日本地質学会創立125周年を記念して〜

 

トリビア学史 13   地方で生きる:福井県の場合


矢島道子(日本大学文理学部)・浜崎健児(Ultra Trex蝓
 

図 (左)岩佐巌.葉賀(1991)より (右)市川新松.川崎ほか(2013)より

 日本の地質学の歴史を調べていると,話はどうしても東京や京都などの都市中心になる.基本的には東京大学で地質学者が育てられ,地質調査所で調査にはげみ,地質学会で議論するという構図で,日本の地質学は始まったので,致し方がないのかもしれない.ただ,目を凝らして見ていけば,いろいろな地方の動きも見えてくる.福井県を一例として報告してみたい.

岩佐巌
 ドイツ・フライベルクにある鉱山学校は世界的に有名だが,そこに入学した最初の日本人は原田豊吉(1861−1894)ではない.福井藩出身の岩佐巌(1852−1899)である.フライベルクで調査した堀越叡氏(1932−2009)から,フライベルクでは今井ウワオと表記されていたと伺っていた(堀越,私信).岩佐巌は福井藩の医師,岩佐家の出で,1860年代後半に今井に改姓し,1880年ころ復姓した.福井藩は進取に富み,外国人技術者の受け入れも,留学者数も全国で飛びぬけて多い.
 今井巌は,明治元年にできた医学校(のちの大学東校)に入学したと思われる.東京帝国大学五十年史には明治初年の医学校の動きがくわしく記されているが,最初の入学生については記載がない.また,同じ岩佐家の岩佐純(1835−1912)が東京医学校の制度化に大きく関わっていた.1870(明治3)年,今井巌は医学生としてドイツ留学を命じられるが,フライベルク鉱山学校で鉱山学を修めた.ドイツで青木周藏公使の勧めもあったといわれているが,医学から地質学への転向は珍しい.1877(明治10)年に帰国して,開学したばかりの東京大学の冶金学とドイツ語の教授となる.明治14年には東京大学文学部教授兼務となり,その後,住友の別子銅山に勤務した.岩佐の努力は日本全体への寄与となっていった.

和田維四郎
 1870(明治3)年,明治政府は貢進生制度を設けた.福井藩からは南部球吾(1855−1928)が選ばれた.東京開成学校卒業後,明治8年文部省の第1回アメリカ留学生となりコロンビア大学で鉱山学を学んだ.帰国後,三菱鉱山会社に入社し,三菱炭鉱の基礎を作った.
 福井県小浜藩からは和田維四郎(1856−1920)が推薦された.和田は,東京開成学校卒業後,明治10年の東京大学開学時には地質学・金石学の助教となっている.
 貢進生で地質学者になったのは,小藤文次郎(1856−1935,津和野藩),安東 清人(1854−1886,熊本藩),長谷川芳之助(1856−1912 唐津藩),松井直吉(1857−1911 大垣藩)など数名いる.長谷川,松井の二人も明治8年コロンビア大学に留学して鉱山学を学んだが,長谷川は製鉄会社に就職し,松井は最終的に化学者になった.

本邦金石講究会
 今井と和田は,ほぼ同郷で,鉱物が大好きで,東京大学で顔を合わせており,一緒に行動していたこともあったようである.今井と和田が“本邦金石講究会規則”(明治12年)を「会主」として呼びかけている貴重な資料が現存する.原本は(財)益富地学会館の石橋隆氏が保有している.本会則の紹介は別途石橋氏により実施される予定でありその発表が待たれる.

市川新松
 市川新松(1868−1941旧姓打方)は現在の福井県福井市に生まれ,小学校を卒業後,その代用教員となり,刻苦努力して独学を続け,三重県師範学校助教諭になった.師範学校在職中に京都帝国大学の比企忠教授を訪ね,美しい鉱物に出会った.1904年師範学校鉱物科教員の免許を取り,山梨県や和歌山県の師範学校に勤務した後,郷里に戻って,鉱物の研究を進めた.自宅を整備し,市川鉱物研究室と称して研究を続けた.当時,東京大学鉱物学教室の神保小虎教授と確執が生じ,今度は英語やドイツ語も自修し,外国語で論文を書き,海外では高い評価を得るようになった.水晶の研究が有名である.1933年に天覧の光栄も浴したという.
 市川鉱物研究室は,長男の市川渡(1902−1986)らの整理の努力をへて,その標本類は国の登録記念物に指定された.
 福井の人が福井に根をおろして研究を始める歴史も,作り始められたことになる.

文  献
葉賀七三男,1991, 鉱業会百話 岩佐巌. 『鉱業会百話(上)』.
東京帝國大学編,『東京帝国大学五十年史』上冊,1932年.
川崎雅之・宮島宏 2013,市川新松と市川鉱物研究室.岩石鉱物科学,42,34-40.