〜2018年日本地質学会創立125周年を記念して〜

 

トリビア学史 14   京都の鉱物学者‐比企忠(1866−1927)


矢島道子(日本大学文理学部)・浜崎健児(Ultra Trex蝓
 

図1(左)比企忠(脇水,1927)図2(右)島津鉱物顕微鏡の広告(比企,1925)

日本で最初にノーベル賞を受賞した湯川秀樹(1907−1981)の父親である地質学者小川琢治(1870−1941)は,京都大学理学部地質学教室の創設者であることもよく知られている.小川琢治は,1896(明治29)年に東京帝国大学理科大学地質学科を卒業後,農商務省地質調査所に勤務し,その後,1908(明治41)年に京都帝国大学文科大学に地理学講座担当として赴任した.この講座が理学部地質鉱物学科となったのは,1921年のことである.実は,京都大学には,小川琢次よりも前に,すなわち,1897(明治30)年から,地質学・鉱物学者比企忠(ひきただす)が工学部のほうに赴任していた.京都大学総合博物館に所蔵されている鉱物標本の多くは比企忠の蒐集物である.

比企忠の略歴
比企忠が1927年に亡くなると,『地質学雑誌』には地質学者の脇水鉄五郎による追悼文が掲載された.そこから比企の略歴を拾ってみる.比企はトリビア13に掲載された岩佐巌,和田維四郎,市川新松と同じように福井の出身である.生後すぐに東京に転居し,学習院・第一高等学校をへて,1891(明治24)年東京帝国大学理学部地質学科に入学した.高等学校時代にすでに地質学・鉱物学を志していたという.1893(明治26)年6月6日の吾妻山[一切経山のことだが,当時は吾妻山とよんでいた]大爆発の後,西和田久學と登り,噴出物を調査している(西和田,1893a,b).トリビア9で既出のように,翌7日の爆発で2名が殉職した.比企は1894(明治27)年に東京帝国大学理学部地質学教室を卒業して大学院に進み,神保小虎(1867−1924)助教授の助手を務め,学生の鉱物実験の指導も行った.比企は神保よりも1年年長であった.神保が学歴を素早く駆け上ったといえよう.
1897(明治30)年6月に京都帝国大学が創設され,9月には理工科大学が開校した.比企は鉱物学,地質学,鉱床学の講義を担当し,翌年に採鉱冶金学科が創設された.理工科大学は1914(大正3)年7月,理科大学と工科大学に分離され,1918(大正7年)には工学部採鉱冶金学科となった.比企は1918年に初代教授,1921(大正10)年に工学博士となり,1926(大正15)年5月に定年を迎えた.在職中の1913(大正2)年,欧米に留学し,ドイツをめぐってアメリカに行ったが,病を得て1914(大正3)年に帰国した.比企は健康に気をつけていたが定年後,比較的早く亡くなった.
 
地質学雑誌創設のころ
1893年,日本地質学会は東京地質学会として創設され,『地質学雑誌』第1巻第1号も発行された.原著論文(論説及び報文)も載っているが,雑録,史伝,応問,雑報などを読むと当時の学会をめぐる動きがよくわかる.学会といっても,東京帝国大学理科大学地質学教室や工科大学冶金学教室の動きが中心である.東京大学では毎週土曜日に地学談話会が開かれていた.1893年に東京地質学会が創設されると,毎月第2土曜日が東京地質学会の日となった.まず談話会での報告が雑報として紹介され,それが雑録を経て,数年後に原著論文になっていく.
東京大学の鉱物学教授菊池安(1862−1894)が地質学会創設の翌年に逝去し,一時松島鉦四郎(地質学教室1888(明治21)年卒,後第一高等学校教授)が講師を務めたが,最終的に神保小虎が助教授となった.神保はそれ以前に研究していた北海道の化石について論文発表している頃であった.当時,地質学雑誌は化石の論文よりも鉱物論文のほうが多く,高壮吉(1897(明治30)年冶金学科卒業,のち九州大学教授),篠本二郎,比企忠,小川琢治などがしきりに論文を投稿した.
鉱物論文の中で,玄能石に関わる比企のことが話題に上ることがある.玄能石は長野県に産し,五無斎として有名な保科百助(1868−1911)の研究でよく調べられていた.比企忠が保科の功績を無視したという風説があるが,これは事実ではない.高(1896)は「緑簾石硫酸苦土鉱玄能石の如き我鉱物学社会にその産出を知られたるは全く同君の賜にして」と保科百助の功績であることをはっきり書いており,比企(1896,1897)もまた,保科と玄能石のことについて書いている.
 
島津製作所との協力
島津製作所は,やはりノーベル賞受賞者である田中耕一(1959−)が勤務していたことで有名だが,その歴史は古い.1875(明治8)年,島津源蔵(1839−1894)によって,教育用理科機器の製造をするところとして京都に創設された.もちろん,地学に関係する顕微鏡や,標本なども取り扱った.
島津鉱物顕微鏡は図2にあるように,比企忠の協力のもとに製作された.比企は,学生時代から顕微鏡についての雑録(比企,1894)もあり,鉱物研究に顕微鏡は必須であり,海外から購入するととても高価なので,国産化およびその実用化をめざしたと書いている.
岩手大学農学部農業教育資料館には,古い時代のさまざまな標本や模型などが所蔵陳列されている.宮澤賢治に関係しているので,よく調べられている.箱根火山の断面模型の裏に島津製作所のマークが付いていたと記憶している.
 
文 献
比企忠,1894,顕微鏡岩石學の起源及其発達.地質学雑誌,1巻,181−185.
比企忠,1896,信濃小県郡鉱石産地概況.地質学雑誌,3巻,331−336.
比企忠,1897 信濃國ゲンノー石.地質学雑誌,4 巻,139-141.
比企忠,1925,『鉱物顕微鏡使用法』島津製作所標本部,48p.
市川渡,1980,私と地質学会のかかわり.地質学雑誌, 86巻,2号,147-152.
高壮吉,1897,信濃小県郡鉱物談.地質学雑誌,第3巻,34号, 321-323.
西和田久學,1893a,吾妻山破裂及其噴出物要略.地質学雑誌,1巻,11-18.
西和田久學,1893b,吾妻山破裂及其噴出物要略 : (三)或噴出石略誌.地質学雑誌,1巻,102-108.
脇水鉄五郎,1927,工学博士比企忠君を悼む.地質学雑誌,34巻,407号,口絵.