津波と集落

正会員 高山信紀

まえがき

あと数ヶ月で東日本大震災から10年となる.この間,様々な分野で調査・研究が行われ,復興が進められ,膨大な画像や文献が公開されている.本記事では,筆者が訪れたことがあるいくつかの津波被災地の思い出と,このたびインターネットで調べたこれら被災地の津波被害と復興の一端を述べてみたい.
 

(1)南三陸町

2009年11月,宮城県南三陸町のJR気仙沼線清水浜駅で下車した.駅は高所にあり,駅の下に集落があった(写真1).駅の下で自転車を組立て,同町中心街の志津川から戸倉を通り,同町の津の宮にあった海の傍の民宿に泊り,翌日,戸倉から登米市柳津を経由し石巻に向かった.1年4ヶ月後に東日本大震災が発生するなど想像もしなかった.
南三陸町は,1896年明治三陸津波で死者1,240名,1933年昭和三陸津波で死者87名,1960年チリ津波で死者41名など大きな被害を受け,チリ津波後,高さ(標高.以下同様)4.6m程度の防潮堤の整備などが進められた1).その後,核家族化に伴う世帯数の増加などもあり,チリ津波浸水域の開発が進んだ1).東日本大震災の津波では,最大浸水高19.6m2,死者・行方不明者793名など大きな被害を受けた1).東日本大震災から半年後の2011年9月,岩手県洋野町から宮城県南三陸町までの三陸沿岸を車で見てまわった.清水浜駅は壊れ,駅の下にあった集落は無くなっており(写真2),志津川の市街は破壊され,津の宮の民宿は更地となっていた.
東日本大震災の後,国の“修正された防災基本計画では,今後の津波対策には二つのレベルの津波を想定し,<1>最大クラスの津波に対しては住民等の避難を軸に,ハード・ソフトの様々な施策を組み合わせる,<2>比較的発生頻度の高い一定程度の津波に対しては,人命保護に加え,財産の保護,地域の経済活動の安定化,効率的な生産拠点の確保の観点から,海岸堤防の整備を進めるとされた.”3) 南三陸町では,避難路・避難場所の整備,高台に新たな宅地造成,防潮堤の整備(志津川は高さ8.7m4),公共施設の再配置等の復興計画が策定され1)復興が行われている.2016年6月,JR気仙沼線柳津駅からBRT(バス高速輸送システム)に乗車し,南三陸町に向かった.車窓より以前通った戸倉や志津川の復興状況が見えた.同町の歌津駅でBRTを下り,自転車で歌津館崎の魚竜化石産地を見学し泊浜の高台にある民宿に泊まった.高台の住宅は津波の被害は無かったが,海辺は更地となっていた.翌日,歌津,モノティスの化石を産する皿貝,高台に新しく造られた住宅街を通り,志津川のさんさん商店街で後続の友人達と合流し,以前泊まった民宿が移転した高台にある新しい宿に泊り,津波時の避難の話を伺った.

写真1 清水浜(2009年11月) 写真2 清水浜(2011年9月)
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(2) 野田村

岩手県野田村は,明治三陸津波で死者261名,昭和三陸津波で死者6名など大きな被害を受けた5).村の中心街は,海の近くの平地にあり,海辺から順に第1堤防(高さ10.3m,12.0m),防潮林,第2堤防(三陸鉄道,国道45号線.高さ7.8m)が設けられていたが6),東日本大震災では,津波(津波高15.6m6))が第1堤防と防潮林を破壊し第2堤防を越えて中心街を襲い大きな被害が出た5),6),7)(村内の死者38名7)).その後,第1堤防(高さ14.0m),防潮林,第2堤防(三陸鉄道,国道45号線.高さ7.8m),緩衝地帯,第3堤防(盛土.高さ8〜12m)の整備5),8),集団高台移転などの津波復興計画が策定され9),10)復興が行われている.
 

(3) 普代

岩手県普代村の普代集落は,普代川河口から約1.3km上流にあり,明治三陸津波で死者95名,昭和三陸津波で死者29名など大きな被害を受けた11).1959〜62年度に集落の傍に高さ15.5mの防潮堤(写真3)が設けられたが12),その後,防潮堤の外側に,1968年に普代小学校が新築され(普代小学校ウェブサイトより),1975年には三陸鉄道普代駅が設置され駅周辺で宅地化が進んだ11).1972年に海岸線から約500 m 上流の普代川に高さ15.5mの水門の築造が開始され1984年に竣工した7),12),13).東日本大震災の津波では,普代の水門は破損(写真4)したものの浸水を最小限に食い止め,普代の集落は被害がほとんどなかった6),7),11),13).なお,“実際には到達した津波は高さ約20メートルで水門を超えており,(略)「素早く高台に避難することこそが重要である」という教訓を後世に伝承できる施設でもある.”13)との警鐘もある.
 

写真3 普代防潮堤(2011年9月) 写真4 普代水門(同左)
 

(4) 田老

岩手県宮古市の田老地区(旧田老村,旧田老町)は,明治三陸津波で死者・行方不明者1,859名,陸地の生存者は36名のみという大被害を受けた14).津波後,村当局は永久的な「防浪工事」を計画し義援金で津波危険地帯にある全集落を山麓に移転する工事にかかり,5〜6 戸が計画に沿って高所に移転したが,工事は挫折し,移転した家も1戸を除き元に戻り集落を再興した15).昭和三陸津波でも,死者・行方不明者911名など大きな被害を受け,集団高台移転も検討されたが,適地が見当たらなかったこと,村民のほとんどが漁業従事者であったことなどから,村独自で1934年から高さ10mの防潮堤の建造を開始,翌年より県の事業となったが1940年に戦争で中断され,1954年に再開,1958年に完成した14),15).避難路も整備され,1960年のチリ津波(最大波高3.5m)では人や建物の被害はなく,その後,第2防潮堤(1962〜65年度),第3防潮堤(1973〜78年度)も建造され,自治会ごとの避難訓練も行われていた14),15)
東日本大震災では,津波(津波高推定16.3m6))が第3防潮堤と第1防潮堤(写真5)を越え,第2防潮堤を破壊し6)(写真6),死者・行方不明者181名など大きな被害を受けた7),14).その後,防潮堤の整備(一線堤高さ14.7m,二線堤高さ10.0m) 8),16),浸水が予想される区域の高台移転,災害危険地域の住宅建築制限,一部地域の嵩上げなどの田老地区復興まちづくり計画が策定され16),17)復興が行われている.
   

写真5 田老第1防潮堤(2011年9月) 写真6 田老第2防潮堤(同左)
 

(5) 吉浜

岩手県大船渡市の吉浜地区(旧吉浜村)は,明治三陸津波で死者・行方不明者204名など大きな被害を受けた18).その後,低地にあった集落は山麓の高所に移転し,高さ8.2mの防潮堤や防潮林も築造され,昭和三陸津波では防潮堤は流出したが被害は比較的小さかった18).東日本大震災では,津波が防潮堤(高さ7.15m12))を破壊し水田が流出するなどしたが,高台の集落の被害は小さかった7),18).復興に当たり,防潮堤を震災前の高さとするかその倍の高さとするか地元住民の討議と投票が行われ19),震災前の高さ7.15 mとされた4),19)
 

(6) 仙台平野

2013年9月,東北大学で開催された日本地質学会大会の巡検「2011年東北地方太平洋沖地震津波と869年貞観地震津波の浸水域と堆積物」(案内者:東北大学 菅原大助氏, 箕浦幸治氏)20)に参加した.仙台平野の津波被災地の他,弥生時代の遺跡発掘現場と仙台平野の中に掘削されたピットにも案内して頂き,貞観と弥生時代の津波堆積物などについて説明を伺った.
文献によれば,三陸地方は縄文時代以降何回も超巨大津波があり5),21),津波前後で遺跡数の減少などの変化が生じている21).宮城県仙台市の沓形遺跡では水田跡が約2,000年前の津波堆積物に覆われ22),津波後,水田は放棄され,付近の集落は古墳時代前期に再興された23).300年以上集落が再興されなかったのは,津波へのおそれが伝承されたというより,水田の上に堆積した土砂の撤去が困難だったこと,当時は海岸線が現在より内陸約2kmにあり22)排水や除塩24)が困難であったこと(大地震による土地の沈降もあったかもしれない),水田や集落に適した土地が他にあったことなどによるのではないだろうか.
 

(7) 千葉県九十九里浜

九十九里浜は,江戸時代,イワシの地引網漁が盛んで,それまでの海から離れた集落から海寄りにも集落が形成された25).1703年元禄津波では九十九里浜で2,000名以上が死亡したと言われており,各所に供養塔がある26).しかし,その後,更に海の近くにも集落が形成された25).東日本大震災では,津波が千葉県外房沿岸にも襲来し,特に九十九里浜北端に位置する千葉県旭市の飯岡地区(津波高推定7.6m)は大きな被害を受けた(市内の死者14名)27).2019年4月,友人達と飯岡にあるヨードを含む黒湯の温泉民宿に泊まった.この民宿は津波で流され,その後新築されたもので,御主人より当時の避難の話を伺った.翌日,嵩上げされた海岸堤防(高さ6.0m)の上の九十九里浜サイクリングロードを南下した.海が輝いていた.
 

あとがき

2011年9月,車で大船渡市越喜来の浦浜地区を通った.ここも大きな被害を受けていた(死者・行方不明者28名28)).道路脇の広場に手作りの児童公園29)があったが,雨が降りそうな天気で人影はなかった.公園に大きな看板があり,手書きで次のように書いてあった(写真7).「ここがオキライですか? ハイ!! でもでもだーい好きです!」
 

写真7 手作りの児童公園(2011年9月)
 

文 献

  • 1)南三陸町(2012), 南三陸町震災復興計画(2012.3.26改訂)
  • 2)宮城県土木部(2012), 東日本大震災1年の記録,第8章津波の痕跡調査結果
  • 3)内閣府(2012), 平成24年版防災白書,第2編第2章(5)地震・津波被害の軽減に向けた各行政分野の取組
  • 4)宮城県・岩手県(2016),三陸南沿岸海岸保全基本計画(改訂版)
  • 5)野田村・野田村観光協会(2015, 2016), 岩手・野田村震災の記憶
  • 6)岩手県(2011), 第1回岩手県津波防災技術専門委員会,資料No.3平成23年東北地方太平洋沖地震及び津波被害に関する被害状況及び考察
  • 7)岩手県(2013), 岩手県東日本大震災津波の記録,2版
  • 8)岩手県(2016), 三陸北沿岸海岸保全基本計画
  • 9)野田村(2012), 野田村東日本大震災津波復興計画
  • 10)三宅 諭(2015), 移転先住宅地での生活再建に向けた「暮らしのデザイン」ワークショップ, 農村計画学会誌,Vol.33,No.4
  • 11)松浦茂樹(2012), 東日本大津波災害と東北復興についての一考察-宮古市田老地区を中心に, 国際地域学研究,第15号
  • 12)岩手県(2019), 岩手県地域防災計画(平成31年3月28日岩手県防災会議決定),資料編2 2-15-3海岸防潮堤防設置一覧
  • 13)震災伝承ネットワーク協議会ウェブサイト「震災伝承施設」
  • 14)宮古市(2017), 東日本大震災宮古市の記録
  • 15)山下文男(2004), 三陸海岸・田老町における「津波防災の町宣言」と大防潮堤の略史, 歴史地震,第19号
  • 16)宮古市(2012), 宮古市東日本大震災地区復興まちづくり計画
  • 17)後藤・安田記念東京都市研究所(2017), 東日本大震災からの復興と自治-自治体再建・再生のための総合的研究-,第3章第1節 宮古市の復興
  • 18)国土交通省東北地方整備局道路部ウェブサイト「津波被害・津波石碑情報アーカイブ」
  • 19)福与徳文,山本徳司,毛利栄征(2014), 海岸堤防の高さに関わる合意形成の新たなかたち, 農業農村工学会誌,第82巻,第3号
  • 20)菅原大助, 箕浦幸治(2013), 2011年東北地方太平洋沖地震津波と869年貞観地震津波の浸水域と堆積物, 地質学雑誌,第119巻
  • 21)相原淳一(2012), 縄文・弥生時代における超巨大地震津波と社会・文化変動に関する予察-東日本大震災津波の地平から-, 東北歴史博物館研究紀要, 13
  • 22)松本秀明,熊谷真樹,吉田真幸(2013), 仙台平野中部にみられる弥生時代の津波堆積物, 人間情報学研究,第18巻
  • 23)斎野裕彦(2012), 仙台平野中北部における弥生時代・平安時代の津波痕跡と集落動態, 東北芸術工科大学東北文化研究センター編, 東北地方における環境・生業・技術に関する歴史動態的総合研究 研究成果報告書
  • 24)友正達美,坂田 賢,内村 求(2012), 平成23 年(2011 年)東北地方太平洋沖地震による津波被災農地における平成23 年春期除塩作業の実施状況と今後の課題, 農村工学研究所技報,第213号
  • 25)菊地利夫(1959), 九十九里浜イワシ漁業の豊凶交替と新田・納屋集落の成立との関係, 新地理,7巻,2号
  • 26)千葉県(2009), 防災誌元禄地震,第2改訂版
  • 27)千葉県(2013), 東日本大震災の記録, 同追補版
  • 28)岩手日報社・IBC岩手放送ウェブサイト「碑の記憶」
  • 29)遠野まごころネットウェブサイト「月刊アーカイブ」2011年11月
 
※日本地質学会NEWS Vol. 23, No.11(2020年11月号) 掲載